聖書の中の動物たち


 聖書の中にはたくさんの動物(は虫類・昆虫も含む)が出てきます。それらが出てくる箇所を見ると、クリスチャンにとっていろいろなことを教えられます。これらの中から参考になるものがあれば幸いです。

獅子ろばらくだいなごやもり

キリストの謙遜を示す動物たちキリストの権威を示す動物たちキリストの柔和を示す動物たちキリストの犠牲を示す動物たち


 蛇

 聖書で最初に出てくる動物は、意外ですが、「蛇」です。創世記3章で蛇はアダムを惑わしました。ここでの蛇はサタンの化身だと言われています。蛇は呪われた動物として聖書の中で一貫しています。

 しかし、例外は次の御言葉です。

 「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」(マタイ10・16)

 ここから、蛇は賢さの象徴となりました。呪われた動物の蛇が賢いものでもあるとはどういうことでしょうか。サタンは神様のみ業を妨害しようと知恵を尽くしています。そしてイエス様もしばしばそのサタンの挑戦を受けました。ですからイエス様はサタンの賢さをよくご存じだったのではないでしょうか。

 イエス様がサタンの挑戦を受けたと考えられるのが三回ほどあります。一回目はマタイ伝2章です。ヘロデは幼子イエス様を殺そうとしてベツレヘム近辺の二歳以下の男の子を全て殺しました。サタンは救い主が働きをなさる前から周到に準備しました。これは私たちに事前の準備の必要性を教えます。神様のみ業に預かるとき、確かに聖霊が導いて下さるのですが、準備がなければ神様に用られることはできません。私たちはいつでも神様の召しに答えられるよう事前に準備しているべきです。

 二回目はマタイ伝4章です。荒野に上られたイエス様に悪魔は三つの試みをしました。それはイエス様の身分への挑戦、御言葉の信頼への挑戦、地上に来られた目的への挑戦でした。サタンはイエス様をよく知っていました。この方が神の子であり、御言葉に信頼し、十字架のみ業を完成させた後に王として再び来られることを理解していました。私たちもイエス様をよく知るべきです。しかも、サタンはイエス様を知って恐れていましたが、私たちはこの方を知って喜ぶのです。

 三回目はマタイ伝16章です。サタンはペテロの口を通して、ご自身の十字架の使命を初めて語られたイエス様をいさめました。サタンは初めて語られたその時期を逃さなかったのです。私たちも時期をとらえて適切な処置をすることが必要です。求道者にも集会に対しても、手遅れになる前に行動すべきです。

 クリスチャンは世にあって賢くなければなりません。お互いの行動が神様に導かれた賢明なものでありたいと思います。

 


 犬

 犬は人間のペットとして古い歴史を持っている動物です。私は家族が犬を飼っていますので、犬が可愛いものだと実感しています。

 ですが、聖書は犬に対して冷淡な態度をとっています。極めつけは箴言26章11節の、「犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさを繰り返す。」でしょう。しかし、これは事実に基づいたことです。私の家で飼っていた犬は、私が散歩させていた時に吐いた物の臭いを嗅ぎ、また食べようとしました。私が強く引っ張ってもなかなか離れませんでした。

 愚かなことを繰り返す、それは私たち人間の性質をよく示しています。ペテロは第二の手紙2章でこの箴言の箇所を引用し、にせ教師を犬に例えて、イエス様の素晴らしさを知った上でまた以前の罪の生活に戻る人に必ず裁きが下ると警告しています。私たちは決してカルデヤのウルやエジプトに戻ってはなりません。

 詩篇22篇16節に「犬どもが私を取り巻き、……私の手足を引き裂きました。」とあります。この犬はイエス様を十字架に付けたローマ軍の兵士、つまり異邦人を指します。と同時に、12節には「数多い雄牛が、私を取り囲み、」とあります。牛はきよい動物です。よってこの雄牛はイスラエル人を指します。イエス様を十字架にかけた時、異邦人はまだしも、きよい民のイスラエル人は真の王であるイエス様を取り囲んで悪口雑言を浴びせかけ、十字架につけました。何というかたくなさでしょうか。

 しかし、異邦人にはマタイ伝15章のスロ・フェニキヤの女の素晴らしい模範があります。彼女は最初イエス様に近づく時、イスラエル人と同じ立場で「主よ。ダビデの子よ。」と呼びかけました。しかし、イスラエル人は行いによって神様に近づこうとした民です。それは御心ではありませんでした。イエス様も彼女の思い違いを正すためにお答えになりませんでした。そこで彼女は27節で「ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と言い、自分を小犬だと言い表しました。自らの立場を理解し、謙遜になり、その上でイエス様の憐れみを求めたのです。これこそ神様の方法でした。彼女はイエス様からその信仰をほめられた、たった二人の内の一人となることができました。

 私たちは自分を表すべきではありません。自分は神様の無条件の愛によって救われた小犬だということが、私たちの勲章なのです。

 


 羊

 聖書において羊は重要な動物で、「聖書の動物」そのものだと言えます。創世記4章でアベルによって最初に神様に捧げられたのは「彼の羊の初子の中から、それも最良のもの」でした。それはイエス様の贖いを予表するものです。また黙示録22章では「神と小羊との御座が都の中に」あり、栄光のイエス様とともにある幸いが示されています。神様の永遠のご計画を羊が表現しています。

 羊についての聖句は大変多くありますが、それらは二つの種類に分けられます。一つは主イエス・キリスト御自身を表すもので、もう一つは私たち人間を表すものです。そうした羊の二重性がよく現れているのはイザヤ書53章です。6節には「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」とあります。人間の身勝手さがよく表れています。一方で7節には「ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」とあります。羊は十字架の苦しみを忍ばれたイエス様の姿でもあります。

 イエス様と人間とが同じ「羊」であるとはどういうことでしょうか。羊は自分がほふられる時であっても従順に従います。イエス様もまた、愛しておられる神様から捨てられるという悲しみ・苦しみを神様の御心として受け入れ、完全に従われました。「羊」が表すものは、この「従順さ」だと思います。

 私たちも従うべき方を見失っていたときは、荒野をさまよって狼に襲われる危険の中にいました。しかしひとたび導く方に出会ったら、従順にその声に従います。ヨハネ伝10章には「すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」とあります。羊は羊飼いの声だけに聞き従います。私たちもイエス様の御声に、御言葉に従順に従うのです。それは不本意の従順ではありません。「羊は、彼の声を知っている」のです。羊自身が判断し、自らの意志で喜んで従うのです。

 クリスチャンはその羊の性質を持つべきです。ペテロは第一の手紙2章で「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」と言いました。私たちはかつての惨めな状態から救われ、幸いなお方の下にいるのです。イエス様の御声を聞いたなら、わがままで強情なろばのような態度ではなく、従順に聞き従う羊にふさわしい者でありたいと思います。

 


 獅子(ライオン)

 獅子は「百獣の王」としてよく知られています。確かに雄獅子が草原の中を歩く姿には威風堂々とした雰囲気があって、王の風格を漂わせています。

 聖書の中でも獅子は「王」を表す動物として扱われています。創世記四九章でヤコブが子どもたちを祝福したとき、ユダについて「ユダは獅子の子」と言いました。その預言の通りユダ族からはダビデ王が出て、ダビデの王家はイスラエル王国とは違い途中で絶えることがありませんでした。

 そのユダ族であり、ダビデの王統から、真の王であるイエス様も出られました。エゼキエル書一章でエゼキエルが見た四つの生きものは右側に獅子の顔がありました。それはマタイの福音書で示される、王としてのイエス様を表しています。また、黙示録5章では「ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので」と天の長老が言っています。イエス様は勝利した王として誉め讃えられているお方です。

 また、獅子はどう猛な動物でもあります。野の獣や家畜などを襲うだけではなく、時には人間も襲いました。しかしその獅子は、神様の裁きの道具として用いられる場合があると思います。列王記第一13章でヤロブアム王に神の警告を告げた神の人は、主の命令に反して引き返してパンを食べた後、道で獅子に殺されました。しかし獅子はその死体を食べず、乗っていたろばを裂き殺そうともしませんでした。これは神様の裁きによるのではないでしょうか。またダニエル書6章で、ダニエルが獅子の穴に投げ込まれたときも、獅子はダニエルに何の害も加えませんでした。そしてダニエルを訴えた者たちが妻子共々獅子の穴に投げ込まれると、獅子は彼らの「骨をことごとくかみ砕いてしまった。」のです。獅子は神様に信頼する者には手を下さず、神の僕に敵対する者を滅ぼしたのです。

 このことから王であるお方の性質を教えられます。イエス様は確かに「世の罪を取り除く神の小羊」として来られました。しかし再び来られるときは真の王として来られるのです。その時の王は獅子のように神様の御心のままに厳格な裁きをなさいます。千年王国ではマタイ伝の山上の垂訓がその文字通りに施行されます。真の王にはそうなさるだけの権威があるのです。

 私たちはこのお方に仕える者です。憐れみ深いだけではなく、厳しく公正に私たちを扱ってくださるこのお方を覚えるのは、私たちの喜びです。

 


 ろば

 ろばは英語で「donkey」または「ass」といいます。しかし辞書には、どちらにも「ばか者」という意味が別にあります。聖書でもその評価は基本的に変わらず、箴言26章3節には「馬には、むち。ろばには、くつわ。愚かな者の背には、むち。」と書かれています。ろばは口にくつわをかけなければ人間の指示に従わない、我が強く頑迷な動物です。

 頑固で、飼い主の指示を聞かない。それは私たち人間の性質をよく表しています。その意味でイエス様とは何と対照的でしょうか。ヨハネ伝15章10節でイエス様は「わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっている」とおっしゃいました。父なる神様はイエス様をこよなく愛されました。イエス様はその愛に応えて、父なる神様の戒めを完全に守られました。それは、十字架にかかられるほどの完全さでした。一方、私はどうでしょう。イエス様が十字架にかかるほどの深い愛を示されたのに、私はイエス様の戒めにどれくらい従ったでしょうか。ただ恥じ入るばかりです。私は、あのろばと同じ頑迷な者です。

 出エジプト記12章13節には「ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。」と書かれています。これはまさしく、私たちが神の小羊イエス様によって贖われる必要があることを示しています。クリスチャンは、自分に何か立派なものがあると思うべきではありません。人間の肉の力は、神様の御前にただの一つも価値あるものを差し出すことはできません。神様の御心を満足させられるのは、イエス様の贖いだけなのです。

 救い主の血潮によって贖われてこそ、私たちは神様のために働くことができます。ルカ伝一九章には、ろばの子が弟子たちによって連れ出される場面が書いてあります。ろばの子はつながれていました。それはサタンの奴隷であったかつての私たちの姿です。そこへ主の弟子が来て、「『主がお入用なのです。』」という幸いな言葉を告げました。私たちは知恵もなく雄弁でもない、何の働きもできそうにない者でした。その私たちを「『主がお入用なのです。』」とおっしゃって、イエス様は幸いな働きに召して下さいました。

 主は能力や持ち物を見込んで私たちを召したのではありません。私たちの無力さ、しかし主に頼って従う従順さを望んで召されたのです。それは小さな私たちを大きく用いて下さることによって、主の栄光を世に示すためです。

 このろばは、エルサレムに入城されるイエス様を乗せるという素晴らしい名誉に与りました。私たちは勇気を持つべきです。そして、「主のお入用なのだ」という誇りを持って日々歩むべきです。

 


 鳩

 マタイ十章16節に「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」とあります。ここでイエス様は、鳩は素直な動物であるとおっしゃいました。

 鳩はどのような点で「すなお」なのでしょうか。イザヤ書60章8節に「雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか。」とあるように、鳩は高い帰巣本能を持った鳥です。伝書鳩や鳩レースなどはその能力を用いたものですし、鳩はどんな遠い場所からでも間違いなく「すなお」に自分の巣に戻ってきます。

 その姿が創世記8章に記されています。大洪水の後、水が引き始め、山々の頂が現れ始めると、ノアは箱舟の窓から烏と鳩を放ちました。烏は「水が地からかわききるまで、出たり、戻ったり」(7節)していました。新改訳の「出たり、戻ったりしていた」という言葉は、烏が箱舟に戻ってきたような印象を与えますが、そうではありません。もう一方の鳩は、「その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。」(9節)とあって、烏の動作と鳩の動作には明らかな違いがあります。この箇所は、英語欽定訳でも口語訳でも「あちらこちらへ飛び回った。」となっています。

 烏は箱舟に戻ることなく、水の上に浮いている動物の死骸などにとまっていました。この烏は世のものに安息を求める人を示します。烏は大洪水から救われたので、クリスチャンとも考えられます。しかし、彼はイエス様よりも世のものに心を留めます。それが、たとえ死骸のような汚れたものであっても、イエス様以外なら何でもいいと、自分の心を喜ばせるものを求めて「あちらこちらへ飛び回る」のです。

 しかし鳩は違います。鳩は「その足を休める場所が見あたらなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た」のです。彼は世のものには目を留めません。彼は、真の安息は箱船=イエス・キリストの内にのみあることを知っているのです。そして鳩は七日後に「オリーブの若葉」(11節)をくわえて戻ってきます。彼の関心は新しく生まれ出たもの、すなわち天での幸いと栄光にあります。

 クリスチャンには様々な困難や試練があります。そして時として、世の楽しみは自分の悲しみを和らげる即効薬だと思ってしまいます。しかし、それらは偽りの安息にすぎません。私たちは「箱舟の彼のもと」、主イエス様のもとに帰るべきです。「神の国とその義とをまず第一に求める」べきなのです。そうすれば、天の祝福はもちろん、地上でもイエス様の守りが私たちにあるのです。

 ソロモンは雅歌1章15節で「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。……あなたの目は鳩のようだ。」と歌いました。私たちの目は鳩のように素直に、愛する主イエス様だけを見上げているでしょうか。そのように努めるべきです。

 


 牛

 牛は私たち日本人になじみ深い動物の一つです。聖書でも牛は神様へのいけにえとして、また食用や労働力として用いられています。

 エゼキエルが見た幻の、四つの顔を持った生きものの顔の一つは牛でした。その牛はマルコ伝でのイエス様、すなわちしもべの姿を示します。そこで、牛はしもべと関連づけて考えることができます。

 牛に関しては申命記25章4節で「脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。」と命じられています。そして、その箇所をパウロは二回引用して(コリント第一9・9、テモテ第一5・18)、霊の奉仕をする使徒や長老たちが金銭的な報酬を得るのは当然だと説明しています。それらのことから、神様はしもべの働きに対して正当な報酬を与えてくださることがわかります。神様は気前のいい方です。タラントやミナのたとえでは、神様の報酬は「たくさんの物」や「十の町」です。五時頃に雇われた労務者たちも他の人と同じ一デナリの報酬を受けました。

 また、神様は出エジプト記のパロのように、れんがを作らせるだけでなく材料も集めさせるような非道な方ではありません。「いったい自分の費用で兵士になる者がいるでしょうか。」(コリント第一9・7)とあります。神様はしもべが働くのに必要なものを全て備えて下さるのです。

 神様がそのような方ならば、しもべである私たちはどうして神様以外のものに頼る必要があるでしょうか。世の楽しみや慰めは魅惑的で、人々の喝采は励みのように思います。しかし、イエス様は悪霊の言い表しを退けられました(マルコ1・25)。私たちは神様だけに頼るべきです。「主の山の上には備えがある。」(創世記22・14)とあります。信仰の山に登って主と交わり、神様の豊かな備えを受け取るべきです。

 そして、私たちが報酬を受けるのは神様からだけです。誰か他の人からの報酬を期待してはなりません。例えば次のことが考えられます。集会で「何人導かれた」「何人救われた」と聞くのは幸いなことです。しかし人数を増やすことを主要な目的として、多くの人を招くためにもっと効率的な方法を用いよう、みことばを宣べ伝えるだけのやり方は古い、と考えるのは危険です。人を救い、人を変える力を持つのはみことばだけです。みことばをまっすぐ宣べ伝えることが神様の方法であり、イエス様の命じられたことです(マルコ16・15)。その御心を曲げて結果のみを重視するのは、この地上での報酬を求めることです。

 しもべである私たちは主人の望むことを第一とし、結果を優先して手段を勝手に変えるのではなく、神様にお任せして忠実に熱心に働くべきです。「私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇121・2)とあります。私たちの信頼と期待の根源は、永遠に神様ただお一人です。

 


 豚

 豚はなじみ深い家畜ですが、聖書では汚れた動物として扱われています。豚は、「ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。」(レビ11・7)とあります。さらに、「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ」(箴言11・22)、「……豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから」(マタイ7・6)とも言われています。これらの聖句から考えると、豚は本当の尊いもの・価値あるものの大切さがわからないもののようです。

 マルコ5章などに記されているゲラサ人の地での、レギオンという名の悪霊につかれた人がいやされた記事は、様々なことを教えます。その地では豚が飼われていました。汚れた動物と知りながら豚を飼っていたということは、人々は霊の豊かさよりも物質的な豊かさを優先させていたことがわかります。そのことから、この地方全体の人々の霊的状態がきわめて低くなっていたことがわかります。彼らにとって大切なのは物質でした。だから、悪霊が豚に乗り移って二千匹の群が失われたとき、彼らは一人の人がいやされたことを喜んだのではなく、このような大損害を引き起こしたイエス様に立ち去るよう願ったのです。

 神様の価値観と人間の価値観とは何と違いのあるものでしょうか。神様は、一人の人の霊が回復することは、二千匹の豚よりも尊いとされます。しかし人々は、二千匹の豚(一頭五万円として一億円の価値)の方が大切でした。霊的状態が低い者は、神様の喜びを喜ぶことができません。かえって神様の判断に不満・不平をもらし、ついにはイエス様を心の中から追い出してしまうのです。私たちはどちらを喜ぶ者でしょうか。それによって、自分の霊的状態を判断できると思います。

 いやされた人はイエス様に「お供をしたい(いっしょにいたい)」と願いました。イエス様はそれを許さず、この地方でイエス様の栄光を証するよう命令されました。彼が喜んでそれに従ったことは、彼が自分の願いを求めるのではなく、イエス様の願いの実現を喜びとしたことがわかります。彼は霊的状態が回復された人でした。そして、彼の願いのものではありませんでしたが、彼は何と尊い、素晴らしい務めを与えられたことでしょうか。そして彼のなした働きは、偉大な影響を人々にもたらしたのです。

 この人を回復させた方はイエス様です。イエス様はこの人をいやすために、わざわざガリラヤ湖を渡って来られました。霊的状態の回復の源はイエス様です。私たちの問題を解決する力を持っているのは、イエス様ただお一人です。イエス様の栄光、ご人格、十字架の苦しみ、それらを覚えることが霊的状態の回復の出発点です。

 


 虫

 「虫」と言っても様々な種類があります。個々の虫に関する聖句もありますが、今回は「虫」と一括して扱っている聖句から考えます。

 小さな虫は、しばしば大きな働きをします。使徒12章では、ヘロデが民衆に向かって演説して大喝采を浴びている時、「するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。」(23節)とあります。集会の祈りにより、小さな虫がクリスチャンの敵を滅ぼしたのです。

 ヨナを教え諭すためにも虫は使われました。ヨナは町の外で、神様の備えられたとうごまによる日陰を非常に喜びました。「しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。」(ヨナ4・7)とあります。ヨナはとうごまが失われたことを「死ぬほど怒」りました。その経験を通して、ニネベの人々を憐れみ、悔い改めを喜ぶ神様の御心を、ヨナは知らされました。

 ここで、「ヨナ」と「とうごま」と「虫」の関係を考えてみましょう。「とうごま」はニネベの町です。「ヨナ」は神様の立場です。ヨナがとうごまを惜しんだように、神様もニネベの町を惜しまれました。そのニネベの町を倒してしまう「虫」とは何でしょう。事実ナホム書には、神様の怒りによって滅ぼされるニネベの姿が示されています。あの憐れまれた町に何が起こったのでしょうか。

 虫についての次の聖句は、そのヒントになります。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。」(マタイ6・19)。虫は小さなものですが、少しずつ宝をだめにします。この「自分の宝」とは、たとえば「自分のいのち」と考えられます。神様と交わり、神様の栄光を拝することのできるいのちは尊いものです。ところが、私たちはこの世への心遣いや自分を愛する心にしばしば捕らわれます。それらの一つ一つは虫のように小さなもので、大したことはなさそうに思います。しかしそれは、私たちのいのちに甚大な影響を及ぼすのです。

 ニネベの町が神様の裁きに遭ったのも、それが原因だったのではないでしょうか。ヨナの伝道によって人々は悔い改めました。それは真実な心でした。しかし時間がたつうちに、かつての神を恐れない心・生活が少しずつ戻ってきたのです。「これくらいなら大丈夫」と彼らも思ったでしょう。それを積み重ねていくうちに、ついに神様の怒りの杯の縁を越えてしまったのです。

 私たちは自分の心に注意すべきです。「これなら大丈夫」と思う自分の判断は当てになりません。私たちはみことばを判断基準として自分自身を監視しましょう。「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」(詩篇119・9)。

 


 烏

 烏は動物の死骸をついばむことから、忌み嫌われるもの、不吉なものというイメージを与えます。しかし、そんな烏からも、神様の深い配慮を覚えることができます。

 イエス様はルカ伝12章で、弟子たちの日々の平安は、現実の生活の保障に支えられるのではなく、神様への信頼に基づくべきことを教えられました。そのことの例証として、「烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。」(ルカ12・24)と言われました。イエス様があえて烏を取り上げられたのは、烏が人々から嫌われる鳥であり、それさえも神様が養っておられることを示されるためでしょう。

 ヨブ記38章41節には「烏の子が神に向かって鳴き叫び、食物がなくてさまようとき、烏にえさを備えるのはだれか。」とあり、また詩篇一四七篇九節には「獣に、また、鳴く烏の子に食物を与える方。」とあります。烏は、神様の広く深い御心をよく示す動物です。

 その烏に養われた人がエリヤでした。エリヤは、「彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行った」と言われたアハブ王に対して、二、三年は雨が降らないと神様の警告をはっきりと告げ、十分に働きをなしました。しかし、彼は神様からケリテ川のほとりに身を隠すよう命じられ、「そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」 (列王第一17・4)と言われました。

 エリヤは、自分の働きに対する神様の報酬はないのだろうかと思ったでしょう。しかも、食べ物に関してむしろ貪欲と思われる烏が自分を養うなどとは想像できるでしょうか。エリヤの落胆は大きかったのかもしれません。

 しかしエリヤが神様の命令に従って身を隠すと、「幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。」(17・6)とあるように、神様は約束通りエリヤを養われました。エリヤはこの出来事を通して、困難な状況にあっても人を養い支えられる、神様の素晴らしいご性質を学ぶことができました。私たちはいつも神様の見えない御手によって守られているのです。

 兄弟姉妹の中には、エリヤと同じように、神様の働きに熱心に仕えてきたのに、それに見合うだけの祝福を受けていないと思う方がいらっしゃるかもしれません。でもそれはエリヤと同じように、神様がご自分の偉大なご性質を私たちに学ばせようと機会を与えておられるのではないでしょうか。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17・3)とイエス様は教えられました。神様ご自身の素晴らしさを知ることが、私たちの本当の満足なのです。

 


 雀

 雀は最もありふれていて、あまり価値を認められない鳥です。聖書でもその点は変わりません。マタイ伝には二羽の雀で一アサリオン、ルカ伝には五羽の雀で二アサリオンとあります。アサリオンは最小単位の銅貨ですから、一羽の雀は最小単位の銅貨よりも価値がありませんでした。イエス様は「しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」(マタイ10・29)と言われました。父なる神様は雀はもちろん、私たち一人一人を覚えてくださる御方です。

 ところで、このみことばは前後関係を考えると、私たちの証しに関係していると思います。「わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。」(マタイ10・27)とあります。神様は私たちを覚えておられるのだから、私たちは恐れることなく証しすべきなのです。

 「二羽の雀は一アサリオンで売っている」というのは、らい病人のきよめのために用いられる雀のことでしょう。「祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるよう命じる。」(レビ14・4)の「小鳥」とは、原語では雀の意味もあるようです。その二羽の雀のうち、一羽はほふられます。その雀は「あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」とあり、神様の許しによって死ぬのです。イエス様は「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10・28)と教えられた後で、雀のことを言われました。すなわち、迫害を受けたとしても、命が奪われることは神様のお許しなしには起こらないのです。

 使徒たちは命の危険をものともせずにイエス様を宣べ伝え続けました。ヤコブは迫害の中で殺され、ペテロは処刑の前日まで牢屋に入れられました。パウロは宮から引きずり出され、ローマ軍が介入しなければ殺されるところでした。「しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ10・33)とイエス様は続けています。使徒たちは死よりも、イエス様から「知らない」と言われることを恐れたのです。

 神様は雀のように価値のない私たちを滅びから救い出し、しかも人々をいのちの道へ導く尊い働きを委ねてくださいました。私たちは恵まれた者です。その神様に信頼し、イエス様を恋い慕うことは私たちにふさわしいのです。「万軍の主。あなたのお住まいは、なんと、慕わしいことでしょう。……雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。」(詩篇84・1〜3)

 


 馬

 馬は聖書(新改訳聖書)の中で146回も記されている動物です。そして、その箇所のほとんどは戦争に関係しています。「エジプト人は追いかけて来て、パロの馬も戦車も騎兵も、みな彼らのあとから海の中にはいって行った。」(出エジプト14・23)とあり、ユダヤ人を追いつめたのは馬に乗った騎兵でした。また、黙示録6章に出てくる白い・赤い・黒い・青ざめた馬は、神様の裁きとそれがもたらす戦争を意味しています。馬は古来より戦争のための機動力として使われた、いわば戦いの道具なのです。

 さて、146回の「馬」の出現場所には際だった偏りがあります。旧約聖書に129回あるのに対して、新約聖書はたったの17回です。さらに詳しく見ると、創世記からエステル記までが61回、ヨブ記から雅歌までが10回、イザヤ書からマラキ書までが58回です。やや少ない部分もありますが、旧約聖書にはほぼ万遍なく出現します。しかし新約聖書では、マタイ伝からユダ書まではわずかに2回、黙示録に15回です。マタイ伝からユダ書までが極端に少ないのです。

 この部分は歴史的に考えると、イエス様が地上にいらっしゃった時代から教会時代までです。すなわち、この時代は「戦いのない時代」なのです。世界史的には戦いは絶えませんでした。しかし、それは世の出来事です。霊的には「戦いのない時代」だと言えます。

 イエス様はエルサレムに入城されるとき、ろばの子に乗られました。本来は真実の王として馬に乗るべきお方でした。事実、イエス様は将来、『「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる』(黙示録19・11)方として白い馬に乗られます。しかし現在は、イエス様は救い主です。イエス様は人間の罪を担って十字架にかかるためにこの世に来られました。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(コリント第二6・2)という現在は、まさに神様との戦いのない時代なのです。

 ところで、新約聖書の黙示録以外で出てくる二カ所の馬から、教会時代におけるクリスチャンのあり方を教えられます。最初は、「また、パウロを乗せて無事に総督ペリクスのもとに送り届けるように、馬の用意もさせた。」(使徒23・24)です。パウロはイエス・キリストを宣べ伝えるためにローマまで行きました。ユダヤ人たちは彼を殺そうとつけ狙いましたが、パウロは恐れることなく忠実に証しを立てたのです。また二番目は、「 馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。 」(ヤコブ3・3)です。人は言葉で失敗することが多く、クリスチャンも例外ではありません。ですから私たちは謙遜になって、主に頼りつつ良い生き方をすべきです。

 神様との戦いのない時代は何と幸いでしょうか。その中にあってクリスチャンは、大胆に福音を宣べ伝え、また良い生き方をして「地の塩」となるべきです。

 


 魚

 日本は周囲を海に囲まれているので、魚の種類についての知識は豊富です。しかし、聖書には魚の種類の記述があまりありません。レビ記11章9節には「海でも川でも、水の中にいるもので、ひれとうろこを持つものはすべて、食べてもよい。」とあって、水中生物は「ひれとうろこ」を持つ持たないという性質のみで区別されています。この「ひれとうろこ」を持つものがきよいことをクリスチャンに適用すると、「ひれ」で水の中を進むことから世の流れに流されてはならないこと、「うろこ」は体を守ることから世の中で信仰を守るべきことを教えられます。

 でも、聖書で魚の種類の記述が少ないのは意外です。ペテロやヨハネたちはガリラヤ湖で働く漁師であり、ガリラヤ湖には22種類の魚がいると言われているからです。ヨハネの福音書21章で、イエス様がペテロたちに引き上げさせた魚は百五十三匹でしたが、その種類については記されませんでした。これは何故でしょうか。

 イエス様は漁師のペテロやヨハネたちに、「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われて召命されました。この「人間をとる漁師」とは滅ぶべき人間の魂を救い出す働き、すなわち伝道の働きと考えられます。そこで、漁師がとる魚とは一人一人の人間の魂のことでしょう。その魚の種類が特定されないのは、伝道をする時にこの人が救われるかどうか私たちが判断すべきではないことを教えるのではないでしょうか。

 伝道において重要なのは、どんな時でも、またどんな人にでも福音を語ることです。人を救うことができるのは神様だけです。私たちができるのは最大限であっても、曇りなく福音を宣べ伝えることであり、また、誰に対しても区別なく福音を語ることだけです。

 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(テモテ第二4・2)とあります。私たちはみことばを語るのに困難な時であっても勇敢に語るべきです。同時に、どんな人に対してもみことばを語る責任を負っています。路傍伝道の時や街角でトラクトを配布する時、人々は誰も彼も福音に無関心のように思われ、気力をそがれます。また、知らない人はともかく、身近な人々に福音を語るのは抵抗を感じます。しかし、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル第一16・7)と言われた主は、救われるべき魂を見逃すはずがありません。だから、私たちは困難な時であっても、また自分が抵抗を覚える人に対しても、大胆にはっきりと福音を語るべきです。

 ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいました(ヨナ1・17)。その中から救い出されたヨナの伝道によって、ニネベの人々は悔い改めました。魚の腹の中から救い出されたヨナの言葉だから、人々は耳を傾けたのでしょう。私たちも主イエス様の十字架によって救い出された者です。人を恐れることなくみことばを宣べ伝えることは私たちの責務です。

 


 らくだ

 らくだに関する印象深い聖句に「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい。」(マタイ19・24など)があります。この聖句からうかがえるらくだの特徴は「大きいもの」ということです。そこで、二つの「大きいもの」に対して私たちの取るべき態度について考えます。

 一つ目はこのマタイ一九章です。ここから、世の人にとってこの世のものを愛する心を捨てることはきわめて「大きな」こと、困難なことだとわかります。しかし「大きな」困難だとしても、神様に委ねるならば捨て去ることが可能です。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(同26節)とある通りです。

 二つ目は創世記24章のイサクの妻を捜し出すしもべの記事です。ここに出てくる人物関係を象徴的に解釈すれば、アブラハム=神様、イサク=イエス様、しもべ=聖霊、リベカ=教会となります。しもべがリベカをイサクの花嫁として連れ帰るというのは、聖霊によって教会がイエス様の花嫁として世から導き出されることの型となります。その際にしもべは次の四つの働きをしました。@リベカを見いだすこと、Aリベカにイサクの宝を見せること、Bリベカの道案内をすること、Cイサクに花嫁を渡すこと、です。イサクをイエス様、リベカを教会と置き換えると、聖霊の働きがよくわかります。

 さて24章の中で、らくだは一八回も出てきます。その中で注目されるのは、しもべがイサクにふさわしい娘を特定するために祈った際の条件です。「その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言ったなら、……」(14節)とあります。この言葉の通り実行したのがリベカでした。これを先の人物関係に当てはめると、キリストの花嫁としてふさわしい教会の条件は、聖霊の「らくだ」に率先して水を飲ませることである、ということになります。

 「らくだ」に「大きいもの」という意味合いがあることを考えれば、聖霊の「らくだ」とは聖霊がクリスチャンに示す「大きな」働きや導きということになるでしょうか。私たちはより重要で困難な働き、あるいは地味で忍耐を要求される働きに召されることがしばしばあります。それを成し遂げようとするときに抵抗感や嫌悪感を覚えます。しかしリベカのように率先して働くことが、忠実に主人に仕えるべきキリストの花嫁としてふさわしいのです。

 リベカがらくだに水を飲ませ終わったときに、しもべがイサクの宝である「金の飾り輪」と「金の腕輪」を彼女に与えた(22節参照)という順番も象徴的です。私たちがまず恐れや自己卑下や怠惰を捨てて、謙遜に忠実に聖霊の示す働きにあずかるとき、聖霊はイエス様の素晴らしい宝を私たちに示してくれるのです。

 今は各地で主の働き人が求められている時代だと思います。主の召しに応じる兄弟姉妹が豊かに起こされますように。

 


 狼

 狼は聖書の中でクリスチャンの敵として扱われています。「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです」 (ルカ10・3)とあり、狼と羊とは完全に敵対する関係にあります。

 また、次の二つの聖句があります。「牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです」(ヨハネ10・12)。「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています」(使徒20・29)。これらの箇所の「(羊を)散らす」、「群れを荒らし回る」という表現から、狼は羊の群れと敵対する、つまり、集会に敵対するものという面もあります。

 狼の攻撃はどのようなものでしょうか。「狼は羊を奪い、また散らすのです」の箇所から、二つ考えられます。

 一つは「狼を奪」うこと、すなわちクリスチャンの信仰を損なうことです。イエス様の十字架による贖いは完全ですから、私たちの救いは永遠に奪われません。しかし、その救われたことを常に喜んでいるかは、各自の信仰によります。私たちの信仰が損なわれると、神様やイエス様の素晴らしさを覚えて賛美する力が萎えて、自分の欲求に身を委ねて神様と共に歩まなくなるので、神様の栄光を証することができません。狼はそのクリスチャンの救いを奪えませんが、彼を見ている他の人々の救いのチャンスを奪うことに成功するのです。

 もう一つは「散らす」こと、すなわち集会を壊すことです。集会は世に対して真理を示し、神様の栄光を表す唯一のものです。ですから、狼はその集会を壊そうと躍起になっています。初期の集会には次第に異端の教えが入ってきました。教会史は聖書に忠実に歩んだ聖徒たちの流した血で綴られています。現代では合理主義が聖書の権威を否定しようとしています。集会は常に外部からの攻撃にさらされてきました。また、私たちが集会を単なる人の集まりと勘違いしたら、集会の尊さは損なわれ、「神の家」である集会の魅力が薄れてしまうでしょう。集会は内部からも揺り動かされようとしています。

 しかし、それらの困難に対して、神様は強力な助けの綱を用意されました。それが「みことば」です。先に引いたヨハネ10章には、「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」(4節)とあって、羊は真の羊飼いであるイエス様のみことばのみに従います。また使徒20章にも、「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます」(32節)とあり、みことばこそがパウロを失ったエペソの長老たちの導き手でした。

 私たちは聖書の導きに信頼し、信仰を守り、集会に喜んで集うべきです。その時、私たちは狼を退け、神様の栄光を表す器となれるのです。

 


 いなご

 いなごは聖い動物で、食用にもなります。バプテスマのヨハネの食物はいなごと野密でした(マタイ3・4)。と同時に、いなごは作物を食い尽くすものでもあります。「かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食い、ばったが残した物は、食い荒らすいなごが食った」(ヨエル1・4)とあります。

 出エジプト記には、エジプトにいなごの大群が押し寄せた記事があります。その前に、神様は雷と雹でエジプトを打ちました。雹は人や家畜だけでなく野の草木をも打ちました。パロは自分の罪を認めたため、雷と雹はやみました。その時点ではまだ、「亜麻と大麦は打ち倒された。……しかし小麦とスペルト小麦は打ち倒されなかった。これらは実るのがおそいからである」(出エジプト9・31〜32)とあって、穀物は完全には取り去られていませんでした。これは神様の豊かな憐れみです。神様はご自身をイスラエルに示すために「パロの心をかたくなにされ」(9・12)、エジプトに災いを下しました。でもその過程で神様はパロがへりくだってご自分に従うよう望まれたと思います。もしこの時点でパロが神様のことばに従ったなら、エジプトに飢餓はなかったでしょう。

 しかし、パロはやはり心をかたくなにしてイスラエルの民を行かせませんでした。彼は神様の憐れみを拒みました。そこで神様は、『いつまでわたしの前に身を低くすることを拒むのか』(10・3)とおっしゃって、いなごを送られました。いなごは残されていた穀物もすべて食い尽くし、「エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった」(10・15)のです。

 神様はすべての人に悔い改めを望んでおられます。そしてそのために大いなる憐れみをお示しになります。現在、神様を認めようとしない人々が毎日を何不自由なく暮らしていけるのは、神様の憐れみのゆえです。しかし、その憐れみを当然のこととして不従順を続ける者には、神様は必ずその報いを刈り取らせるのです。

 さて、そのいなご自身については何と言われているでしょうか。いなごは箴言の四つの知恵者のうちの一つです。「いなごには王はないが、みな隊を組んで出ていく」(30・27)と記されています。彼らは一斉にやってきて穀物を食い尽くし、また一斉に飛び去っていきます。まるで見えない王が先頭にいるようです。そしてその王に従順に従っているので、一糸乱れぬ行動ができるのかもしれません。神様への不従順ゆえに手痛い災いを被ったパロとは正反対に、いなごは自分が従うべき方が誰か、はっきりと知っているのです。

 いなごを通して不従順の愚かさと従順の幸いとを覚えることができます。私たちの王も今は目に見えません。しかし、私たちはみことばを通し、信仰を通して、霊の目で王なる主イエス様を見ることができます。この方をいつも見上げて従う日々を歩みたいと思います。

 


 やもり

 やもりは聖書の中でレビ記と箴言の二回しか出てきません。レビ記によれば、やもりは汚れた動物です。しかし箴言では、やもりは四つの「知恵者中の知恵者」の一つです。「やもりは手でつかまえることができるが、王の宮殿にいる」(箴言30・28)とあります。

 何故やもりは知恵者なのでしょう。ある兄弟は、「やもりは自分がどこにいたら安全か知っている者だ」と教えてくれました。やもりはいつでも手で捕まえることができます。しかし宮殿の中では王の許しなしには手を上げることもできず、そこにいるやもりを捕まえることができないのです。このことから三つ考えます。

 第一に、自分が今いる場所は安全かということです。神様から心が離れると罪の心が求める場所に行きたがり、それを妨げるものを忌み嫌います。私たちは兄弟姉妹の教えや勧めを心から喜んで受け入れているでしょうか。交わりが重荷と思うならば安全な場所にはいません。エペソの集会は初めの愛から離れてしまったと非難され、「あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれたところから取りはずしてしまおう」(黙示2・5)と警告されました。神様から離れたままでいると証の機会が取り去られるようです。

 第二に、安全な場所はどこかということです。そこは「王の宮殿」の中でした。私たちにとってのそれは、イエス様と共に歩むことです。イエス様によってレギオンを追い出していただいた人は、人々がイエス様を追い出した時、「お供をしたい」(新改訳の訳注は「いっしょにいたい」)(マルコ5・18)と申し出ました。彼はそれを許されませんでしたが素晴らしい証の働きが与えられました。彼の心はいつもイエス様と一緒にいたことがわかります。クリスチャンがイエス様と共にいることを望み、喜ぶことが、力強い証の源です。

 第三に、「王の宮殿」からイエス様の権威を覚えます。イエス様がゲッセマネの園で捕らえられた時、弟子に対して「わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか」(マタイ26・53)と言われました。十二軍団の人数は七万二千人です。一人の御使いは十八万五千人の敵を一晩で殺しました(列王第二19・35)。その御使いが七万二千人いる軍団は単純計算で百三十三億二千万人の人間を一度に殺すことができます。これはその当時存在していた人類全てを滅ぼせる能力でしょう。神の御子を捕らえるという畏れ多いことの報いとして、それが起こっても当然でした。しかしイエス様は聖書のみことばを成就するために十字架にかかられました。私たちの王はこのような権威と力を持ち、それと相反する謙遜と柔和を合わせ持った偉大な御方です。

 このイエス様と共に歩むことができる私たちは、なんと幸いでしょうか。

 


 キリストの謙遜を示す動物たち −じゅごん、虫、羊−

 イエス様の型となる動物は多くあります。これまでに取り上げたものと重複しますが、イエス様の素晴らしさを動物たちを通して覚えたいと思います。

 「天幕のために赤くなめした雄羊の皮のおおいと、その上に掛けるじゅごんの皮のおおいを作る。」(出エジプト26・14)

 イスラエルの民とともに荒野を旅した幕屋の幕は四重になっていましたが、その一番外側はじゅごんの皮でできていました。この「じゅごん」と訳されている語は、穴熊、イルカ、羊、または絶滅した未知の動物などとも訳されるようです。それらの共通点は目立たぬもの、見栄えのしないものだということです。

 この幕屋についてはよく学ばれており、それらを覚えることは本当に幸いです。四重の幕はイエス様の御性質を表します。一番内側の「撚り糸で織った亜麻布」はイエス様の歩みと御性質の汚れない聖さを示しています。二番目の「やぎの毛の幕」は、イエス様のこの世からの聖別を示しています。三番目の「赤くなめした雄羊の皮のおおい」は、死にまで従われたイエス様の献身を示しています。それらの最も外側に「じゅごんの皮のおおい」がありました。

 じゅごんの皮で覆われた幕屋は、外見は決して魅力のあるものではありません。イエス様が地上を歩まれた時もそのような姿を身にまとわれました。

 「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」(イザヤ53・2)

 また現在も、悔い改めていない魂にとっては、イエス様はじゅごんの皮のように魅力のないものでしょう。

 「ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(コリント第一1・23〜24)

 このように、キリストの血を携えて幕屋の内に入った者は、その内側の美しさや素晴らしさに目を見張ります。そして、四重の幕によって表されるようなイエス様の栄光を覚えることができるのです。

 地上を歩まれた時、イエス様の真の姿は変貌の山で示されました。しかし、光り輝く雲に包まれた後に現れたのは、じゅごんの幕の下に輝く栄光を隠されたイエス様でした。

 「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。」(詩篇22・6)

 イエス様はご自分を虫けらと言われました。その通りに十字架上で人々にさげすまれ、それでも神様の御心を実行されました

 「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53・7)

 従順な羊のように限りなく謙遜で、人の目には何の見栄えもないイエス様。しかし、仕える私たちにとっては限りない魅力に輝く御方です。

 


 キリストの権威を示す動物たち −獅子、馬−

 箴言30章に、「歩みの堂々としているもの」として次の四つが挙げられています。

 「獣のうちで最も強く、何ものからも退かない雄獅子、いばって歩くおんどりと、雄やぎ、軍隊を率いる王である。」(30〜31節)

 おんどりは聖書にはこの箇所しか出てきませんが、雄やぎはダニエル書に「毛深い雄やぎはギリシヤの王であって、」(8・21)とあって、アレキサンダー王を示すものとして用いられています。おんどりと雄やぎは、世の王たちを示すものと考えられます。

 おんどりと雄やぎは「いばって歩く」ものです。それは世の王の真の姿をよく示すのではないでしょうか。世の王は多くは世襲であり、または戦いによってその地位を奪取するものであって、彼らはいわば「王となった者」です。彼らの地位は仕える人々によって支えられなければならず、そこで彼らは必要以上に「いばって歩く」のです。

 一方、イエス様はどうでしょうか。イエス様の王としての地位は永遠から永遠までそうであり、人間の力によって支えられなければ保たれないようなものではありません。すなわちイエス様は「王である御方」です。ある時に王になったのではなく、世々限りなく王であられる御方です。それは神様がご自分の御名を示して、「わたしは『わたしはある』という者である。」(出エジプト3・14)と言われたのと同じです。イエス様は最初から王であり、その権威は一度も変更されたことがありません。

 「主は、王であられ、みいつをまとっておられます。」(詩篇93・1)

 「主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。」(同97・1)(99篇も同様)

 これらの詩篇には、神様が王であられて、川や地などの被造物がその権威を認めて恐れおののいている姿が示されています。イエス様もまた、世々変わることのない権威をお持ちの御方です。

 そのイエス様の姿は、「獣のうちで最も強く、何ものからも退かない雄獅子」というみことばによく示されているのではないでしょうか。雄獅子にはそれ自体に威厳と風格があり、彼が歩くと他の動物は恐れて自ずと退きます。仕えるものやお追従の存在など周りにいなくても、雄獅子は彼単独で王者としての権威を鮮烈に放っています。

 「何ものからも退かない」という雄獅子の特性もまた、イエス様によく当てはまります。神の御子であられる御方が十字架にまでかかられました。他の三つの福音書は、人々がイエス様の十字架をシモンに背負わせたと書いてありますが、ヨハネの福音書には、「イエスはご自分で十字架を負って、『どくろの地』という場所に出て行かれた。」(19・17)とあり、十字架にかかったのはイエス様ご自身の意志であることを強調しています。その意志は、雄獅子のように「何ものからも退かない」ものでした。

 「見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」(黙示5・5)

 イエス様こそは、裁きを下す権威を持っている御方です。イエス様はご自分の十字架によって救いの道を完成され、神様の恵みを完全に表されました。救いの御業のために、イエス様の側には何の不足もありません。この完全な救いを人々は拒んだのですから、責任は人々の側にのみあります。完全な救いを完成された御方だからこそ、それを拒んだ人々を裁く権威を持っているのです。

 勝利者となったイエス様は馬に乗った姿で表されています。

 「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実、また真実。』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。」(黙示19・11)

 馬に乗る者は戦士であり、勇士です。イエス様は絶対の権威をもった勇士として、ご自分に反抗した世を裁くのにふさわしい御方です。

 百人隊長はこのイエス様の権威を認めて、イエス様よりその信仰をほめられました。私たちにとってイエス様は、権威者として誇るべき御方であり、真の主人として真心より仕えるべき御方です。

 


 キリストの柔和を示す動物たち −めんどり、ろば−

 イエス様は人々を御下に来させようとされたご自身の姿を、めんどりを用いて示されました。

 「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」(マタイ23・37)

 「めんどりがひなを翼の下に集める」とはなんと暖かい姿でしょうか。敵や夜露から守るために、めんどりは幼くて弱いひなを自分の翼の下に集めます。それと同じようにイエス様は人々を憐れみ愛されました。「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた」(マルコ6・34)とあるように、イエス様は真実に優しく柔和なお方です。

 その柔和さは、同時に忍耐深いものでした。「あなたの子らを幾たび集めようとしたことか」から、イエス様はご自分を拒む人々に繰り返し愛を示し続けられたことがわかります。ペテロが兄弟の罪を赦すのは七度までかと尋ねたとき、イエス様は「『七度を七十倍するまでと言います』」(マタイ18・22)と答えられました。これは単なる教えではなく、イエス様ご自身が実践されたことです。

 「翼の下」は幸いな場所です。ルツがボアズに最初に会ったとき、ボアズは「『あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように』」(ルツ2・21)と言いました。ルツは異邦の女でしたが、慣れ親しんだ安楽な道よりも神様に頼って歩む苦難の道を選んでナオミと一緒にやってきました。そして、ボアズに頼って彼の足の所に寝ていたルツは「『あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください』」(同3・9)と言いました。彼女は華やかな若い男ではなく、買い戻しの権利のあるボアズに頼りました。ルツの判断は幸いなものです。

 そのルツを買い戻すために全力を尽くしたボアズは素晴らしいイエス様の型です。イエス様はご自身を頼る者に柔和に接し、翼の下におおって下さいます。そして罪人である私たちを買い戻すために全力を尽くし、全てを捨てて下さいました。

 「『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」(マタイ21・5)

 イエス様がエルサレムに入城されたとき、乗っていたのは馬ではなくろばの子でした。神の御子が馬小屋でお生まれになり、真の王が荷物を運ぶろばの子に乗られました。このようにイエス様は低くへりくだられて、ご自分の下に来ることの障害を取り除かれました。イエス様の柔和で麗しいご人格に接するためには、私たちがルツのような賢い選択をするかどうかにかかっています。

 


 キリストの犠牲を示す動物たち −羊・牛−

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1・29)という言葉は、イエス様の十字架の意味を覚えるために幸いです。

 「あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、……」(出エジプト12・5〜6)

 過越の羊は傷のないものでなければなりませんでした。そのために一定の期間を設けて見守られました。そのテストを経て、傷がないと認められた羊だけが、過越に適するものです。

 イエス様も、三十三年半の間「よく見守」られたお方でした。そしてその結果、「傷のない」との宣言を受けました。

 イエス様を見守っていた目は三つあります。第一は神様の目です。神様はイエス様に三回直接お語りになりました。最初はバプテスマの時、二回目は変貌の山、三回目は十字架にかかるのが間近に迫った場面です(ヨハネ12・28)。それぞれは、その時点までにおけるイエス様の歩みが完全であったことを神様が承認なさったものだと言えます。

 第二は御使いの目です。「『キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、……』」(テモテ第一3・16)とあるように、イエス様の生涯は御使いたちに見られたものでした。神様のひとり子であられるイエス様をよく知っている彼らにとって、イエス様が人として完全に歩まれるのを見るのは、驚きの連続だったでしょう。

 第三は人間の目です。イエス様に対して好意的な、あるいは偏見に満ちた人々の視線が浴びせかけられました。「『キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから』」(マルコ15・32)という冷たい視線もあります。しかし、イエス様の完全さは損なわれませんでした。

 イエス様は救い主として適当かどうかずっと見守られ続け、見事に証明されました。この方こそ、私たちの罪を贖う力のある、ただ唯一のお方です。

 かつて、神の箱がペリシテ人に奪われたとき、それを返すために乳を飲ませている二頭の雌牛がかり出されました。その牛は、神の箱を載せた車を引いてベテ・シェメシュまで来ました。人々はこれを見て、「その車の木を割り、その雌牛を全焼のいけにえとして主にささげた」(サムエル第一6・14)とあります。仕事の報いが殺されることだとは、何ということでしょう。でも、それはイエス様のなされたことでした。牛の忠実な姿は、無私の歩みをされたイエス様をよく示します。

 イエス様は完全な御方であり、その贖いも完全です。ですから、私たちの救いも完全です。この方以外のものは必要ありません。そして、この方だけで十分です。栄光が、主イエス様にとこしえまでもありますように。


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